「暇と退屈の倫理学」を読んでの考察
2023/05/13
蔦屋家電のシェアラウンジで「暇と退屈の倫理学」を読書をしていろいろ考えたことをまとめてみた。最近、休日に何をすべきかということが悩みになり、旅行って何のためにするのだろうとか考えてしまっていたので、参考になった。
最近の悩み
休日になると、せっかくの休みを充実したものにしたいとあれこれと考えるのだけれど、考えすぎて行動に移せず時間だけが過ぎるジレンマが多くなっていた。
充実させたいからシェアラウンジで読書しよう、カフェに行こう、家族とキャンプに行こう、ハイキングに行こうなど。ただ、お金もかかるし何のために行くのかということも考えてしまい、結果行動しないことも。
休日とは何で、どうするのが良いのだろうか。なぜ充実させたいのだろうか。。。
暇と退屈の倫理学
1時間ほどだったので前半しか読めてないけど、後半は要約サイトを参考にしつつ、なぜ暇を嫌うのかわかった気がする。
1. 昔は余暇なんてなかった、だから幸せだった?
ラッセルの幸福論の話になるほどと思った。
発展途上ではやることが沢山あり才能を発揮できる。いろいろ足りない時代なので、余暇なんてないし、生きるため、発展させるために必死の時代。
しかし、発展したら時間をもて余す。そこに幸せはない。という話。
これにはいろいろ考えさせられる。
2. 余暇をカタログで生きていないか?
我々が余暇で行っている趣味などは、実は用意されたカタログから選んでしまっている。
旅行もCMやTVや雑誌で楽しいと刷り込まれて、沖縄に行ってダイビングしてショッピングしてとか、カタログ化されたもので過ごしている。登山もキャンプも結局は用意されたカタログ。
果たして本当に余暇を過ごせているのだろうか、企業戦略に踊らされて浪費をして疲れているだけではないのだろうか。
余暇でやりたいことの需要がありそのための生産があるのではない。生産したカタログから余暇の需要を作り出している。
真の余暇とは何だろう。
3. 退屈を嫌い不幸になる
なぜ人間は退屈を嫌うのだろう = 余暇に何かをしたがるのだろう。
昔は遊牧生活を行っていた。移動の度に環境への適用すべく負荷がそれなりにあり刺激があった。しかし、寒暖のある緯度に達した時に定住生活が必要になった。冬は食料が取れないため貯蔵が必要となり遊牧できなくなった。
この遊牧生活の名残で適度な負荷や刺激を求めており、余暇に何もしないのが嫌いだという話。
余暇に兎狩りに行く人にウサギを与えてしまったら嫌な顔をするだろう。狩りとは退屈から逃れるために駆けずり回ることである。
ゆっくり過ごせばよいのに退屈を嫌って外に出る。つまらぬ気晴らして退屈を避けて不幸になる。
気晴らしは熱中できて自分を騙せるものである必要がある
4. 人間は環世界を行き来するため退屈してしまう
人間は想像を通して異なる環世界を行き来してしまい、逆に1つの世界に浸れず退屈する。
情報過多の世界、情報をインプットしあまり考えずに情報を消費していってしまっている。これが短サイクルで行われているため1つのことに集中できず、情報がないときに何をしていいかわからなくなってしまう。
5. 1つのことを深く思考し没頭しよう
結論、情報浪費ばかりせず、1つのことを自分なりに思考し没頭していこう。そうすることで1つの環世界に浸ることができ退屈がなくなる(はずだ)
そのために楽しみ、思考する訓練をしていく。